細川ガラシャその1
2008年01月23日
先日野村選手の奥様が会話の中で、
テレビの歴史番組を見て細川ガラシャの話に感動したと言われていました。
ガラシャには女性ファンが極めて多いのですが、
女性は悲運と言われるガラシャに同情や共感をするのだろうか?
実は日本だけでなく、葉子さんだけでもなく
ガラシャはヨーロッパの高貴な貴婦人にも人気があったという。
あの!あのマリーアントワネットやマリアテレジアなどにも
影響を与えたとも言われるガラシャさん。
かなり昔のことだから話し半分としても
ビックリニュースである細川ガラシャの実像に迫りたいと思います。
さて細川ガラシャの実名は玉といい
明智光秀の三女として1563年に産まれました。
なので正式名は明智玉であり、細川ガラシャではないんです。
幼少より熱心なキリシタンであり、
またこれからご説明します内容が後世のキリスト教信者の伝説となり、
光秀と同じく織田信長の配下の有力な武将であった
細川忠興に嫁ぎ、沢山の子宝にも恵まれた。
当時女性は皆嫁ぎ先の姓で呼ばれることはなく、
正室であっても普通は名字はなく玉やお玉と名前しか呼ばれなかったのです。
細川殿の奥方の玉様とかって呼ばれるのです。
例えば~有名な豊臣秀吉の正室おね(ねね)でさえも
豊臣おね~とかには絶対に呼ばれない訳です。(北政所や高台院とも呼ばれるが)
姓を許されたのは当時は男性のみの特権だった訳で、
正しくは細川ガラシャとは当時の名前ではないのですが、
ここでは玉でなく間違っても分かりやすいガラシャと呼びますね。
何故にガラシャが名を残したかと言うと、
本能寺の変と関ヶ原合戦という歴史上の大きな流れの中に密接に関係するのです。
本能寺の変の際、玉の実父である明智光秀は、
自身の与力衆(信長から預けられたお目付け役の家来)で
姻戚関係のある細川藤孝、忠興(ガラシャの夫)父子は
必ずに味方するとと光秀は信じていた。
(当時の光秀と藤孝の関係は、織田信長が大社長とするなら部長が明智光秀で、
その直属の部長代理ないし、優秀めな課長クラスが細川藤孝という感じ)
細川家はある意味で上役上司にあたる
光秀に協力しなかったことで家名は一応は存続したのですが、
しかし細川家にとっての問題は謀叛を起こしたのが、
ガラシャの実父である光秀ということでした。
光秀に味方しなかったのはその流れ的には良かったのですが、
戦国の世の中はそんなに甘くはありません。
光秀に勝った時の権力者である秀吉に忠誠を誓う意味でも
何らかの自己処分をしなければ、細川家に罪を問われる可能性があったので、
細川家の決断は悩んだ挙げ句に、ガラシャを幽閉するということになり、
ガラシャは一年以上も細川家監視の中で幽閉生活をしいられた。
今では信じられないような話ですが、
当時女性は家名存続の道具でしか無かったのです。
そのことを理解し命懸けで成し遂げたのがガラシャさんで御座いました。
因みに細川家は元首相の細川氏の先祖であります。

