津田宗及とその末裔その1
2006年06月22日
戦国時代の堺は、町自体が独立した政権で、
町には城のように高い城壁や深い堀があり、
金で三好などの軍事兵を雇い入れ、あらゆる敵からの侵入を守った。
諸外国からや日本中の貿易の圧倒的なる一大拠点で、
南蛮や中国からの、珍しい品が溢れかえり、
高級な海産物や食糧も日本で一番集まっていたのだ。
そうイチバーン!(ハルクホーガンの懐かしいTシャツ)
ハルクホーガンとそしてもう一人、僕らのザッキーこと坂崎タケシ氏も愛用
戦国期最大発明発見にして最先端の武器、
「種子島といわれた火縄銃」の国内最大級の生産地でもあり、
まさに経済と文化の大国であった。
また会合衆(えごうしゅう)なる堺という
政権国家の実力者が集まる今の国会のような組合があり、
大商人にして日本屈指の茶人であった津田宗及、
茶人であり鉄砲の製造を牛耳る今井宗及という2人の宗及という超大物が
当時その会合衆に君臨していた。
(ちなみにあの有名な千宗易(後の千利休)は、
茶人としては津田宗及の沢山いる弟子の1人で、
商人としても沢山ある商家の1つにしか過ぎなかったのは、あまり知られていない事実です。)
そのダブル宗及達が、まあ~どれくらい凄い人達かというとですねぇ~
田中角栄と笹川良一と佐藤栄作
と松下幸之助と本田宗一郎と川端康成と岡本太郎を足した位の凄さというか!?
(戦後の同時代の人で表現、また、元経済企画庁長官で、
作家である堺屋太一氏曰く、戦後復興と戦国時代は高度成長期としては、
ちょっと似ているらしいのだ。名字が「堺や!」なのも頷けるぜぇ。(^O^))
当時のあらゆる方面への影響力として、
堺という町は、まさに計り知れない巨大組織だったのだ。
大金持ち集団とはいえ、ヒルズ族のような株的バブルなものではなく、
どちらかといえば、戦後の独占的起業家タイプに近い。
当時の信長の大軍に代表される烏合の衆の集まる権力集団でも決してないのだ。
そんな誰にも屈しない気品の高い人達(会合衆)に、
初めて無理やり頭を下げさせ、矢銭つまり税を徴収したのが信長だ。
その信長のやり口が、凄まじさと緩和とが入り混じり実に巧妙である。
足利義昭を奉じて京に上洛した信長は、
まず自由国家である堺に、二万貫という多大な税を課した。
しかし,当然の如く会合衆は大反対し、信長は八万の兵で堺に攻め込むと宣言する。
そして考えた結果会合衆は、
その番頭格の十数人を話し合いの使者として京に送ることにする。
ところが新興勢力の大名である信長は大激怒し、会合衆の使者全員を切り捨てる。
堺の会合衆としては、殺されたくはないという一心で、
所謂「みんなで渡れば怖くない」とふんだ行動を、
尾張名古屋出身の鬼のごとき信長には、その考えは全く通用しなかったのだ。
そうして堺は信長に屈した。
ちなみに矢銭二万貫のお金の価値ですが、
恐らく当時35才の信長は、そんな大金を初めて目のまえで、見たに違いないはずです。
(簡単に言えば、日本に何人かは年商一千億の会社の社長はいるけれど、
その年商の一千億の現金を眼のあたりにし、
自分所有にできる方って、まずいないでしょ?ヒルズ系投資家を除く)
恐らく自由都市の堺は金を払うことよりも、
誰かに頭を下げることが一番嫌だったはずである.
がしかし、その後信長は比叡山焼き討ちに代表される恐怖政治を、
悪びれることなく続けて行くのだけれど、堺という町に対しては非常に重要視していくのだ。
鉄砲の武器としての有効性をかなり早くから理解し多用した。(長篠合戦など)
また、堺でも広まっていたキリスト教を認め、
私生活では、西洋装が気に入り、あらゆる南蛮文化にのめり込んだという。
また、それとは違って、この頃すでに完成されつつあった
日本独自の文化である「茶の湯」を好んだことでも有名で、
その代表格の権威が津田宗及であったのだ。
つまり、信長は経済だけではない、
洋和問わずの「文化都市堺」を一番理解していた人だったのだ。
津田宗及と織田信長は、
独りの人間としてかなりうまがあったことは、
歴史的にも間違いないだろう。
恐らく津田宗及が放つ茶人としての感性や、
経済人としての動向をを信長は、全て受け入れた。
また、茶の湯は密室で行われる故に、
あらゆる情報を宗及は信長の為に集めたに違いない。
宗及はある時期までは、信長に天下を取って欲しかったのだろう。
茶の湯という密室の中においては、
宗及と信長は唯一無二の対等の関係だったのである。
その津田宗及の末裔が現代も財界で活躍し、
残っておられる事実は、かねてから資料や本で知っていたのですが、
その現在の直系の長男が、このブログにもよく出てくる!
あのガーブの代表の津田大輔君28才なのです!?。(笑)

